大正オトメ御伽話第12話「春の嵐」感想
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第12話感想
あららららららららぁ〜
恥ずかしくて想いが伝えられぬまま大災害に巻き込まれてしまう、まさに純粋なオトメあるあるですな。
夕月はどうにか意識を取り戻して無事に生還できたけれど、街では大勢の人物が瓦礫の下敷き、あるいは煙に巻かれ火災で焼き尽くされて息を引き取った人物が大勢いて、そのなかには想い人への気持ちを伝えられぬまま無念の死を遂げた人もいた、と考えるとやっぱり想いを伝えるべき時に伝えるのは大事なことだとつくづく思うね。
意識を失ってもなお珠彦の姿が思い浮かんでくる、それくらい夕月は珠彦のことを想っていて、気持ちを伝えるまでは死にたくない、伝えても死にたくないって気持ちが大きかったんだろう。
夕月、実は意外にも自ら身売りしてたのな、借金のかたに両親から売られたわけではなかった、意外とパワフルお嬢ちゃんだった。
飲んだくれの父親に売られた綾とはわけが違った、そりゃ綾も身売りされたのに幸せそうに笑顔を見せる夕月に妬むようになるわ、身売りまでのルートがそもそも違っていたからね。
たぶん夕月はこれからもいろいろと生き抜くいいおっかさんになると思うな。(こちらは大正昭和平成令和と現代に至るまでの日本史を知っているからね)
しかしまあこんなときでもなお大衆を救護活動してる親類に重体な自分の息子を優先してこき使おうとする珠義は何様だって感じなんだが、右手が使えなくなった珠彦のことを「子は三界の首枷」なんて言っておいやって、兄弟の見合いの時に邪魔な人間だとして死んだ扱いするような人格破綻者だからなあ。
あ、ちなみに子は三界の首枷とは、親にとって子はいつまでも気にかける、自由を束縛する存在であるって意味ね。
とはいえ、これじゃ三界の首枷どころか単なる首枷にしか思ってないだけじゃないか。
珠介から渡された紹介状ひとつでなんも言わずに帰っていこうとするさまが実に無様でならないと感じたのは私だけか。
そしてこの考えはすっかり令和の平和ボケした時代のもので、明治時代の富国強兵の流れを汲む大正時代の価値観ではおそらく間違っているんだろう。
両親が右腕が使えなくなった息子の世話をつきっきりでできるのはやはりすっかり国として成長を遂げ、戦争を知らない平和な時代だからで、発展途上だった時代では経済を発展させて豊かにすることこそが国を、軍事力を強くするって考えだったから利き腕でもある右腕が使えなくなると人間扱いされなくなるってのもわからなくはないからね。
ついに終わってしまった……
この三ヶ月間夕月なしでは生きられないカラダになってしまっていたよ、それくらい彼女のあたたかいまごころに感化されてしまっていたんだけどな。
だから彼女が被災したのち意識を取り戻した時は心から大喜びしたよね、命を落としてもらっては困る、彼女の笑顔に珠彦含め一体何人が救われたか…
もはや珠彦と夕月はどっちが主人公だったんだってくらいに献身的だったからね彼女は。
今回の場合は珠彦ハーレムというよりかは夕月ハーレムだったね、女の子がハーレムを作るのは私が見た作品の中でははめふらのカタリナ以来だった。
まあ女学校に通える裕福な家の出で自ら身売りするような子だから、強く生き抜くだけの人望と強かさは持ち合わせているんだろう。
むしろ珠彦のいうペシミストとは本当にペシミストなのか疑問に思えてきた、本当のペシミストなやつがこんなに簡単に彼女の笑顔とまごころを見て夕月を幸福にするために生きよう!なんて考え方を変えられるわけがないからな。
ただの女々しいウジウジ野郎じゃないかってすら思えてくるよ。
そんな野郎の心を180度変えてしまえる、どんなときも珠彦の隣にいるのはだれよりも夕月なんだよな〜ってのをつくづく思わされたね。
世の中、他人の幸せが許せない人物がたくさんいるけれど私は逆だな、他人の幸せなところを見るところにこそ喜びを感じてしまうね。
当作品はとりわけその象徴でもある作品だった。
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